西郷隆盛は幕末有数の政治家、軍人であり、明治維新の元勲です。まさに七転び八起き、激動の50年をまずは4コマで。
4コマで西郷隆盛
解説
藩主の側近に抜擢し政治の手ほどきをうける
西郷隆盛は1827年(文政10)、鹿児島で薩摩藩下級武士の家にうまれます。通称吉之助、号は南洲。
1854年(安政1)、吉之助は薩摩藩主島津斉彬の庭方役に抜擢され、江戸に出て政治の手ほどきを受けます。
ときはペリー来航の翌年。外国との条約問題などに直面し、攘夷派と開国派が対立した将軍継嗣問題では、攘夷派の一橋慶喜将軍を推して擁立運動に尽力しました。
自殺未遂と2度の島流し
しかし、開国派の幕閣・井伊直弼が大老に就任すると政争に敗北。主君の斉彬は鹿児島で病死してしまいます。絶望した吉之助は、鹿児島の錦江湾で自殺をはかりますが、はたせず奄美大島に流されました。
1862(文久2)年に召喚され、藩主・島津久光のもとで働くも、嫌疑をかけられ失脚、沖永良部島に流されました。 1864年(元治元)に赦免されると、藩の重職として京都に上り活躍します。
薩長同盟、幕府打倒へ
西郷は1865年(慶応1)ごろから幕府打倒に傾き、1866年(慶応2)には坂本龍馬らの仲介で、宿敵であった長州との同盟を結びます(薩長同盟)。幕府に対抗できる勢力が成立しました。
1867年(慶応3)、大政奉還により新政府が発足すると、参与として政権に参加。王政復古を進め、徳川の無力化にこだわりました。戊辰戦争が勃発すると、大総督参謀として勝利に大きな役割を果たしました。
明治政府と対立、西南戦争で敗れる
1871年(明治4)、参議筆頭となって廃藩置県に尽力します。しかし、開国を拒否した朝鮮への出兵を唱えると(征韓論)、政府に受け入れられず参議を辞任。鹿児島に戻り私学校を設立、士族の生活救済などにつとめました。
そんな西郷は、新政府の武士層解体政策に不満をいだく士族に絶大な支持を得ていました。政府との確執は深まり、部下に擁立されて1877年(明治10)に鹿児島で挙兵。西南戦争を戦いますが、敗れて鹿児島で自刃しました。
天をうやまい人を愛する、すなわち「敬天愛人」を座右の銘としていたと伝わります。
年表
1828年 薩摩の下級藩士の家にうまれる
1854年 藩主島津斉彬の庭方役に抜擢され、江戸で政治の手ほどきを受ける
同年 斉彬が鹿児島で病没。絶望して鹿児島錦江湾に身を投げるが蘇生。奄美大島に流された
1862年 藩に召還されて島津久光の下で働くが、嫌疑をかけられ失脚。沖永良部島に流された
1864年 許されて薩摩藩軍賦役、小納戸頭取となり京都へ
1865年〜 幕府中心の考え方を改め討幕へ傾く
1866年 坂本竜馬らの仲介で薩長道営を結ぶ。
1867年 10月14日、討幕の密勅が薩長両藩にくだされたが、同日将軍徳川慶喜が大政奉還
1868年 旧幕府軍を鳥羽・伏見の戦で撃退、戊辰戦争が始まる
同年 大総督府参謀に就任、勝海舟との会談で江戸無血開城に成功
1869年 薩摩の藩政改革を推進。東京政府を批判
1871年 東京へ上り政府参議に就任。廃藩置県を成功させるなど改革を導いた
1872年 陸軍元帥兼参議兼近衛都督に就任
1873年 日朝国交問題が緊迫すると征韓論を主張
同年 政府と対立し鹿児島へ
1874年 鹿児島で士族の生活救済のための私学校を設立
1877年 政府に反乱し挙兵。西南戦争
同年 敗れて鹿児島で自刃