桂小五郎(木戸孝允)は、幕末に長州藩の代表格として討幕運動に尽力した政治家です。維新後は明治政府に参加して改革を進めます。西郷隆盛,大久保利通とともに明治維新三傑と称されています。
4コマで桂小五郎(木戸孝允)
解説
長州藩の尊王攘夷派を指導、開明派とも広く交友
1849年(嘉永2)吉田松陰に入門、1852年(嘉永5)には江戸に遊学して、洋式砲術・兵術、造船術、蘭学を学びます。
1853年(嘉永6)、ペリーが黒船で来航し、政治は大きく動きます。桂は水戸、越前、薩摩などの尊王攘夷派と交流し、長州藩尊攘派のリーダーとなっていきます。一方で、勝海舟、坂本竜馬、横井小楠ら開明派とも親交を持ちました。
孤立を深める長州藩の信頼回復に奔走
1863年(文久3)八月十八日の政変、池田屋事件、1864年(元治元)禁門の変など、長州は幕府や薩摩藩、会津藩らと対立し孤立を深めます。
そんな中で、桂は中枢として藩政を支え、長州の信頼回復につとめました。自身も命を狙われる中、藩内の過激派を抑えるなど奮闘。桂は身なりをやつして二条大橋の下に潜み、幕府の激しい追求をしのいだとだというエピソードが残っています。
薩長同盟を成立させ明治維新を実現
1866年(慶応2)、坂本龍馬らの仲介で薩摩の西郷隆盛と会談し、薩長同盟の密約を成立させました。幕府打倒の計画を進めました。
1867年(慶応3)、幕府が大政奉還すると新政府に参加。
幕藩体制の解体を主導、外遊し憲法制定を建言する
戊辰戦争で旧幕府軍を破ると、版籍奉還、廃藩置県といった幕藩体制を解体する大改革を支えました。明治4年には、岩倉遣外使節に同行して、諸外国を歴訪。憲法をはじめとする法制を研究し、帰国後は憲法制定を建言。しかし、富国強兵政策をすすめる大久保利通らと対立し、一時職を離れました。
1877年(明治10)、西南戦争のさなか、京都で病没しました。