4コマで坂本龍馬〜幕末の英雄がしたこと、その功績〜


19世紀後半、日本は黒船という「西洋の衝撃」に直面しました。危機の日本に生き、時代を転換させる原動力となった坂本龍馬は、土佐を脱藩した28歳から暗殺される33までの5年間に、大きな功績を残しました。「Epoch Maker〜時代を開く者」シリーズの第1段をお送りします。

4コマで坂本龍馬

解説

高知から江戸へ。黒船の衝撃を受ける

1835年(天保6)11月15日、高知城下の下級武士の家で、坂本龍馬が誕生します。5人兄妹の末っ子です。
14歳のとき日根野道場に入門し、剣術で頭角を表します。19歳のとき、龍馬は江戸へ剣術修行に旅立ちました。

江戸では三大道場のひとつ北辰一刀流の千葉定吉道場に入門します。
このとき、ペリー提督が黒船を率いて浦賀に来航。多くの人々と同様、龍馬は黒船の来航に大きな衝撃を受け、世界へ向けて目を向けていくことになります。

このときは、「もし戦争になれば異国の首を討ち取って土佐へ帰ります。」と父に手紙を書いており、攘夷思想を抱いていたと言われます。

土佐に戻った龍馬は、1861年(文久元)、27歳のときに武市瑞山率いる尊王攘夷派の結社「土佐勤王党」に参加しますが、翌年には脱藩してしまいます。

再び江戸へでた龍馬は、幕府で軍艦奉行並をつとめる勝海舟の弟子となり、海軍の知識・技術を身に着けます。

龍馬はこのあと、幕末の日本で大きな功績を残していくことになります。

高知県立坂本龍馬記念館は、龍馬が大事を成し遂げられた理由を、次のように評しています。

立場の違う人の言うこともしっかりと聞き、良い所を吸収する柔軟な考えを持っていたこと。そして、多くの人が実現不可能だと思っていることでも成功させられる行動力を持っていたこと。新しい時代の明確なビジョンを持っていたこと。そして最も重要なのは、優れた人脈を幅広く持っていたことです。

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日本初の商社「亀山社中(後の海援隊)」を結成

1864年(元治元)、勝海舟が設立し、龍馬が片腕としてはたらいていた神戸の海軍操練所が閉鎖されてしまいます。龍馬と操練所で学んでいた脱藩浪人たちは行き場を失いました。

そこで翌年、龍馬は薩摩藩の庇護をうけ、長崎で「亀山社中」を結成します。海運業、船や武器の輸入で利益を得る「日本初の商社」と言われています。

後に、龍馬の活躍に目をつけた土佐藩が脱藩をゆるし、藩に復帰させます。亀山社中は海援隊となり、土佐藩の組織となりました。

対立していた薩摩・長州の同盟を仲介

ペリーの黒船来航以来、日本の政局は大きく転換し、薩摩や長州が影響力を大きくしていきます。「天皇を重んじ外国を打ち払うべし」ととなえる尊王攘夷派の長州に対し、薩摩は朝廷(公)と幕府(武)が協力して国難にあたる公武合体を推し進めます。

1864年(元治元)には、長州藩と薩摩藩らの幕府勢力が京都御所で武力衝突する禁門の変が起こるなど、両者は対立していました。

犬猿の仲とも言える薩長を仲介し、密約を結ばせたのが坂本龍馬です。
薩長同盟の後、幕府は長州征討へ乗り出します。薩摩は幕府から出兵命令を受けますが、これに応じず、長州は幕府軍を退けました。
龍馬の画策した薩長同盟によって、幕府に対抗しうる勢力がまとまったのです。

船中八策を提案し大政奉還を実現させる

勢力を増した薩長は、武力で幕府を倒すことを検討し始めます。いっぽう、龍馬の出身である土佐藩は、武力衝突を避けたいと考えていました。

龍馬の活躍に目をつけた土佐藩は龍馬に接近し、策を求めました。

龍馬が土佐藩船夕顔の中で提案したのが「船中八策」です。将軍が天皇に政権を返上する大政奉還とともに、議会の開設や貨幣整備など先進的な提案が含まれていました。

提案を受け、前土佐藩主の山内容堂は徳川慶喜に大政奉還を建白し、実現します。

大政奉還の1カ月後、33歳の誕生日に龍馬は京都の近江屋で暗殺されてしまいます。実行犯、黒幕ともにさまざまな説がありますが、真実は明らかにされていません。


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